http://www.kantei.go.jp/jp/koizumispeech/2006/08/15interview.html平成18年8月15日の小泉総理官邸インタビューが文書かされているが、長いので引用はしない。
内容はおなじみの支離滅裂なのだが、その「論理」を言えば、自分がこう思うから、そうでしょ、人が(他国)どう思うかは関係がない、その繰り返しでしか無い。
個人の回想なり、仲間内の話だけならそれも結構かも知れないが、彼の行為は個人としてどう考えようと、アジアの世界の中の日本の首相の行為として、結果するのだ。
評価は総て、その関係の中でどう意味づけられるか、いや意味の総てはそこにある、いやそこにしか無いのだ。
この独りよがりが、何処にでも通用する、身勝手な論理はところが小泉の独創とは言えないのだ、残念なことに。
その、好例が真珠湾攻撃が最後通牒手交以前に始まった事に関する、日本での評価だ。
今や手軽なウィキペディアでも、キチンと様々な立場の歴史書でもひもとくと良い、左右を問わず、それは暗合電文の解読翻訳浄書の遅れの定説を中心に、専ら技術的問題としている。
そんな卑怯なまねをするつもりはなかったのだ、あの知米派知性派の大提督山本五十六は?と。
何と都合の良い内向きの言い訳では無いか。
あらゆる戦争自体の間違いは兎も角、それにもルールはあるのだ。
それを知ればこその最後通牒だ。
であれば、攻撃の開始は最後通牒後でなくてはならない、1時間20分遅れとされるが、では予定通りの15分とも30分ともならどうか?
それでもアメリカ軍の反撃の準備は出来なかったろう。
そう読み込んでの時間設定なのだ、そもそもがだまし討ち、それを形式的に整えようと企てた、そうした事なのだ。
それが巧妙な作戦、誇るべき成果!そう言えることだろうか?
対米開戦は、総て日本に非があり、真珠湾攻撃はその卑劣な第一歩、そう理解しなくてはならない、この点だけでも東京裁判の勝者の裁きに、異を唱える資格は日本には無いのだ。
対日包囲網下のやむを得ない先制攻撃、その理解は「小泉語」「小泉論理」そのものでしかない。
これ以上のトンでも説、「自慰史観」の総てはアメリカが察知し陰謀にはめられた、そうした迷説は、だますつもりが騙された、だから悪いのは向こう、そんなものでしか無い。
この自分が、自分たちがこう思うから正しいの論理は、悲しいかな戦争を拒否し、現在の自公連立政権の奈落に一直線に否定的な人々の中にも染みこんでいる。
最近みかじめ料まで警察に侵食された暴力団が、殺人請負、強盗にまで手を染めるのを、衰退産業の業態転換成功例と称賛しよう。
追い詰められた必死の努力と共感しよう。
真珠湾攻撃の間違いを認識出来無いのは、そうした事と変わるところがない。。