そして遺族の怒りの声を続ける、これまでの定式通りの展開だ。
日テレでも、終日被害者の心情を・・と繰り返していたが、どちらも
被害者への共感とは、視聴率を上げられ続けるコンテンツ欲しさの、「営利的共感」でしかない。
特に日テレは自局の若手アナの破廉恥犯罪を隠蔽するのみで、何らの反省を内部化することもなく、そもそも報道、ジャーナリズムを口にする資格さえありはすまい。
この事件に関して、専ら利用対象として被害者遺族を偶像視するマスコミの姿勢は、これまで置き去りにされてきた被害者、遺族の立場を汲んだ、制度形成に役立つものでは無い。
例えば、再犯率の高さを上げれば、覚醒剤の使用犯の膨大な収容者が、一般刑事犯と同一の処遇で、薬物依存からの離脱のための何のプログラムも受けず再犯に至る。
そうした行刑、社会復帰制度の不備が、過剰収容による矯正教育の不徹底を
生む。こうしたより広い視点の中にどう事件を位置づけるのか、そうした問題意識が必要なのだ。
オウム事件以来、関係者を丸ごとさらし者にする事こそ、報道と名付けてはばからない風潮が、動かしがたいものになったが、今回も延々と、事件には全く関わりない被告の父親に、問わず語りに謝罪を求めて延々と語らせる。
こうした事こそメディアリンチと言うのだ。