7.7のフライデーの見出しもそうだった。
被害者周辺の気持ちがそうであるのは間違いないことだ、しかし当事者以外が、こうした表現、犯行の詳細を繰り返し書き連ねる、その意味は共感の表現とは異なると言わざるを得ない。
どれ程我が身に置き換えて理解し、共感を示そうと試みても、立場は全く異なる。
例えば、儀礼的な相手以外の弔問を思い起こすといい。深心の傷を受け手相手への最大の共感の表現は、ただただ傾聴することの外に何もないのは、誰にでも判ることだろう。
そこが限界であり、弁えるべき線なのだ。
往々にして誤る警察さえが、その先走りを懸念することの多い報道に、更に悪のりして、逮捕時から罵声を浴びせ続けるに終始する、被害者への共感などは、他者の痛みへの想いなどではありはしない。
今週路上生活者3人の焼殺事件の判決があった。覚醒剤使用時の心神喪失を認定し、無期懲役。
こうした事件には、全くの無反応だ。その意味は。
ハッキリ言えば、「凶悪事件」とは被害者が女性の性犯罪の別称でしかない。もし当事者が生きているなら、公知の事柄になるのを躊躇する細部を、第三者でありながら、「共感」を掲げれば、クドクド繰り返せる、その心理の底にはポルノグラフィー的興味しか無いだろう。
昨日、ひき逃げの誤認逮捕を警視庁が公表。
被害者を、地裁に呼びつけ!!検察と共に謝罪??したという。
場合によっては、無実であり無罪を主張しながらの懲役もあり得たのだ。
拘留がとかれたのが4日と言うから、何らかの事情で漏れなければ、個人情報の保護でも盾に隠蔽し続けるつもりだったろう。
供述、自白偏重の捜査、窃盗の累犯者に未解決事件を背負わせて実績を稼ぐ、それを見抜けぬ検察、裁判所。
このどこもが、内部告発、内部資料の流失で公金の私的流用(横領)のばれた全国の警察組織、調査活動費の同様な私的消費の告発者の検事を「口封じ逮捕」した検察、物品購入の98パーセントが随意契約と同様の公金流用を暗示させた最高裁以下の各級裁判所と、構造的腐敗、怠慢の集積がこの事件だろう。
そしてその先走りで事実の不確定な段階で悪=加害者を断定し、無責任な慰み者とする情報拡散と、それを疑うことなく消費する、日本社会の病が現れている。
今週の週刊新潮は、奈良の火災事件関係者への、心ない、凶悪犯罪者をもしのぐとさえ言いたい記事を、彼らの当然のやり口とは言え並べ、商売の種にしている。
彼らは現実に人を殺したりはしない、しかし殺せ!極刑!とそそのかすことで、人々の心を腐朽させるのだ、言論の自由の建前の下に。
一見被害者、遺族へ心を寄せるかの表現を連ねて、当然の報復とばかり極刑・・を書き連ねる人々の主張は、こうした愚をただなぞるのみで、全く自ら知り、考えるそうした真剣さに欠けるものばかりだ。
フラッシュ、フライデー、スパあたりが月一位、多少は読める記事ではどうしようも。アエラ、週朝ともに、文春新潮のゴミ拾いとは情けない限りです。