2006年07月02日

死刑がすべてなのだろうか?

 「凶悪事件」の度に、死刑!の声が大きく響く。被害者、遺族の感情としてのそれには簡単に、答えにくい。
 しかし、それ以外の周辺の主張にはまず兎に角、客観的に多面的にと言いたい。 死刑に犯罪抑止効果、と言うと難しく感じるが、ようは自分もその結果命を失うと判れば、思いとどまるだろう。それを期待してなのだが、死刑大国、アメリカ中国を見れば、全く力が無いのは残念だが明らかだ。
 もう一つ、死刑を望む方に共通なのは、決して自分がそうした行為を犯さない、その揺るぎない自信だ、その根拠はどこに何にあるのだろ?
 死刑が関係するような、重大な行為迄は考えないで、人間の行動の変化の巾が、どれ程大きいかは、誰であれ自分の過去を振り返れば気づくのでは無いか。
 あのとき、あと・・・と。
 特に凶悪事件に興味が在るわけではないが、そうした事件について一般の報道の伝える事からだけでも、犯行にまでは多くの不幸の不運の暗合、その存在を常に感じる。
 それが全面的な免罪の根拠になる訳では無いのだが、誰もが時として、そう考える事に、想像力を廻らせたいものだ。
 知っている方が、6月30日付けの「高知新聞」が伝えた、46年前に刑死した死刑囚の残した短歌集の復刻再版の記事を紹介されていた。
 「蟲になりても生きたしと思う 平尾死刑囚の歌集復刻」
  http://www.kochinews.co.jp/0606/060630evening02.htm#shimen2
 死に死で報いるのは、確かに等価の報復ではあろう。
 しかし制度としてのそれには、第三者の関与も仕組みとして必要とされるのだ。
 被害者感情を無視しろと言うのではないが、そこにとどまらぬ全体の問題を
見渡した上での主張を望みたいものだ。
posted by じゅん at 13:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 光市母子殺害事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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