2006年08月23日

冬軍装の共産党員

 随分以前、漠然とだがこちらに来てから、出来れば農業で・・などと考えて、幾人かの人を訪ねては、話を聞いて回った事があった。
 元は10戸ほどの開拓集落(西日本では部落とは通常言わない、理由はおわかりになるでしょうが)で、会ったのは、満州から引き上げてと言う、もう一軒になったのに意気軒昂の、自分は右翼と言う老人だった。向こうも「こ奴!」とは思ったようだったが、幾度かお邪魔しては、今に至るいきさつなどを聞いた。
  また、もうそこは15戸ほどが総て離農して、その人も町中のぼくの住まいの近所に降りていたのだが、やはり入植から離農まであれこれときいたものだ。
 その人が冬、共産党のビラ配りをしているのに行き会った、そのときのいでたちが、旧日本軍の冬の軍装だったのだ。
 軍帽、冬の上下、軍靴、よく今までと思うくらい、戦後半世紀近かったのだから。
 離農した開拓農家とは言っても、家は持ち家なのだから、着るに事欠いてと言うのでは無い。
 兵役の事について聞いたことが無いので、何処で何時は分からないのだが、党活動きっかけとして忘れられない何かがあったのだろう。
 敗戦後年末には、下の身近記事のように全国あちこちに、開拓の名の棄民が展開されていった。
無論当時は知らないし、農家でもないので詳しくは無いが、鍬一丁(確かに当時はそれも貴重品で手には入れにくかったのだ)当面の作付けの種子、種芋、多くは住むところさえ無いので、数枚のムシロ。その程度を支給され、満州他の外地から、また戦災被災者などが、広い土地喰うには困らぬと、半ば騙されるのだと知らずに入植していったのだ。
 旧日本軍用地の後なら平坦ではあったが、多くは山間部の、それまで水利が無く耕作不適地そんなところか、河川敷の洪水時には命さえ脅かされるような所に。
 それは地方の僻地ばかりでは無かった、東京都北区の荒川鉄橋の下の堤防の内側にさえ。


開拓 終戦直後の食糧難解決と、満州(現中国東北部)などからの引き揚げ者の就労対策のため、政府は1945年11月、全国の農村で開拓を進める緊急開拓事業を閣議決定した。北海道や東北、関東の土地を中心に、45、46両年度で計約8万戸が入植。コメや麦、豆類などの作物や酪農に取り組んだ。戦後30年間で、入植した約21万戸のうち約6割が離農したが、造成された農地は東京都の1・5倍の約30万ヘクタールに及んだ。
(2005年12月16日 読売新聞)http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/feature/sengo/ci_se_05121601.htmより
posted by じゅん at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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