地方公務員の低下した服務規律、そんな所に矮小化されて終わってしまった。
今日たまたま通った、「日本名門酒会」の看板を掲げた酒屋は、以前は明るかった照明も半ば消え、知らぬ人には店の存在すら気づかれぬ迄に変わっていた、この十年ほどで。
今日から、酒販売は完全に自由化された。 被害者の失ったものの大きさ、加害者のそれ(父親が謝罪会見をしていた、望んでの事か?)。
飲酒者は多い、多分現在は喫煙者より。
テレビのコマーシャルのかなりを占める、そして自動車も。
加害者の責任の大きさは言うまでも無いのだが、警察官でも非番時には間違いなく飲酒運転をしている、時に勤務中にも。
この飲酒に「寛容」な社会、半ば公然の昼間の飲酒運転を知らない誰があるだろう?
今なら大半の子供は中学生位で、飲酒経験を持つだろう、しかしアルコール依存症の深刻さを知るのは、本人か家族がそこに至る迄は無いだろう。
そして自動車、各社合計すれば売上高は、国の歳入総額にも迫る。
人は行き着く所弱いものだ、個人の決意で収まらぬ場合があるのは、ある年齢を過ぎれば誰もが理解する。
そこに可能な限りは逸脱に踏み込まぬ制度を、用意するのが社会の責任では無いだろうか。
飲酒運転の徹底的な規制、酒販売の抑制、教育課程での酒害の周知、そして自動車から公共交通への転換、一見間遠に思われるだろうが、これは喫緊の課題であり、悲劇再発のかなり有力な手法なのだ。
悲しいかな、持続可能経済成長を目指す?日本社会の容れる所では無いだろうが。
低くした敷居がもたらしたもの、個人の責任とは別に、考えるべきですね。